旅の記憶 – 杭全 –

90歳ヒアリング

この夏で93歳になった祖父の昔の暮らしについてヒアリングするきっかけになったのは、昨年夏に仙台でいただいた1冊のノートだった。

「90歳ヒアリング」という昔の暮らしの知恵を聴き、未来の暮らしを描こうという活動。動脈瘤の手術で入院中だった祖父に早速ノートを見せると「そんなんあるんやなぁ。思い出しときます」と、取材を快諾してくれた。

しばらくすると、祖父から届き始めた手紙の数々。「我が輩は『ネズミ』である」と、茶目っ気たっぷりな書き出しで綴られた幼少期の暮らしの記憶や日本の歴史は、裏返すと病院食の献立表。最後の一枚は「先生様、次は何を書こうかな?」という結びになっていた。

「暮らし」という言葉が呼び水になり、泉のように湧き出る祖父の記憶を受けとる日々を積み重ね、祖父の体調も落ち着いた2017年6月、1泊2日でじっくりと祖父の93年を辿る機会に恵まれた。

80年前のお屋敷

現在の大阪市東住吉区杭全町にあたる「新在家」という村で生まれた祖父。育った家について尋ねると「ほなちょっと書こ」と一言、鉛筆と定規を手にとり、チラシ裏に線を引き出した。

「蔵が5つ、牛小屋、広場、前栽、母屋があって、僕らが借りてた離れはここやな」家具大工の技なのか、消しゴム一つ使わずに80年前の屋敷の間取りが浮かび上がっていく。

村の西端にあった大地主の屋敷の離れを間借りしていたこと。曾祖父は森ノ宮の砲兵工廠で働いていたこと。夏の大掃除は町の交番所の警察官が各家を回っていたこと。買い物は魚や野菜の行商から。町を歩けば、お菓子を貰うのも怒られるのも近所の人だったこと。

祖父の語りから浮かんだ当時の暮らしの景色は、今の閉鎖的なマンション暮らしよりもずっと空間がひらかれていて、町に人のまなざしや声が当たり前に交わされる風通しの良さを感じた。

学校と材木屋の記憶

当時の義務教育は小学校6年、高等小学校2年。4年生で進学か就職かの選択を迫られ、5年生から組が分かれる。勉強熱心で6年間成績優秀賞だった祖父でも、経済的な理由で中学校への進学は叶わなかったという。手紙に綴られた「成にくその競争心で勉強に励みました」という言葉から、自学自習で黙々と努力を続けた祖父の背中を思い浮かべた。

高等小学校卒業後すぐに家を出て、親戚の材木屋へ丁稚奉公。当時は自動車が出てきたとはいえ、南港の市場で仕入れた材木を運ぶのはまだまだ馬車か人力。横付け自転車ややっこ車に4メートル以上の材木を積み、上町台地の坂道を必死に配達した。

「そんなようさん載せて、前つっかえたあるやろ!って警察に怒られことある」材木屋の親方や番頭さん、大工の親方や奧さんまで巻き込んだやり取りなど、祖父の語りから大阪商人の日常が瑞々しく再現されていった。

戦争とは

「私の人生は楽しかったか?」戦前戦後の史実だけを書き写した祖父のノートの表紙裏に綴られた1つの問いかけ。「学業途中から学徒動員。戦争参加。戦争終結。帰国後は社会人1年生、世情は混乱」と続く。

青紙で呉の海軍工廠の会計部に入り、志願して通信兵の学校へ。昭和19年に下関から釜山、満州を通って北京に赴任。終戦後、帰国できたのは20年の12月だった。

「僕は本当の戦場ではなかったし、空襲も遭うてないしな」大阪大空襲に遭った親戚や、死に目に会えなかった曾祖父、南方配属になり戦死した同志、帰路で目にした広島の町。どうしようもない大きな流れの中で青春時代を過ごし、生き抜いた祖父の口から静かに語られる、戦争の記憶。

「何程戦争とは、ばかばかしいものでした」祖父が入院中に綴った手紙の最後にあった一行。その短い言葉の奥にこめれている語り尽くせない想いを、そっと写真におさめた。

大事なもの

「親父も死んでしもたし、何でも働かなあかんかった」と振り返る戦後の日々。帰国後は町工場や大きな工場の臨時雇いの仕事を巡り、何とか生活した。

その後、上の姉の嫁ぎ先の材木屋を手伝うことになり、知人の紹介で祖母と結婚。2人の娘にも恵まれ、家具大工に職を変えた。そこからは皆が知る、祖父の人生だった。

翌朝ふと語られた、祖母の話。少ない給料でやりくりし、生前預けたお金も手を付けずに仕舞われていたのを見つけて「胸がきゅうとなった」という祖父の言葉が優しく響く。

食後に「大事なものはここに入ったあるで」と手渡されたファイルには曾祖父の代からの古い戸籍謄本や、母の結婚の資料、祖母の納骨の案内も一緒におさまっていて、私の結婚式で渡した冊子には「御結婚おめでとう」と祖父の一言。どの資料にも祖父の自筆の一言が添えられていて、その言葉に触れた私の胸もきゅうとなった。

祖父の作った家具

翌朝、母と祖母の妹が合流すると、アルバムをひっくり返しながら祖父が作った家具を探し出す。「乳母車、机、食器棚、本棚、鳥小屋…」3年前に祖母の遺品を撮影したクルー。祖父と共に思い出を振り返る時間は、とても幸せだった。

こうして預かった祖父の記憶。激動の時代を生き抜き、「善」とは何かをその一言一言から静かに教えてくれた祖父への感謝の気持ちをこめて、ここに贈ります。

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取材後記

まだ祖母が元気だった頃、取材を始めたのが今から4年前。徐々に弱っていた祖母が元気なうちに本を贈ろうと、カメラを片手に訪ねては祖父母宅の古道具をひっくり返し、祖母の語りを聴いていました。祖父はいつも後ろでにこにこと頷いていて、語るのは祖母。本の完成を待たずに他界した祖母に代わって、出来上がった本の読者になってくれたのは祖父で、その時期を境に昔の話を教えてくれるようになりました。

祖父の本こそ、元気なうちに。そう思っていたときに出会った「90歳ヒアリング」。ノートに沿って記憶を辿る時間は2人の共同作業のようで、言葉1つ1つから名前のとおりの「善」を感じる祖父の語りは、どれも静かに心に響きました。貴重な語りを引き出してくれたヒアリングノートに改めて感謝をしながら「掌の記憶」としてお贈りします。

Writing,Photo :藤田理代(michi-siruve
2017年6月取材

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