旅の記憶 – 中崎町 –

万華鏡とZINEの出会い

万華鏡作家の宮崎久美子さんと出会ったのは、2015年の春。「万華鏡の作品展が開かれている」と聞き、会場を訪れると宮崎さんが在廊されていて、作品を覗きながらたくさんお話を伺った。

その宮崎さんが友人のTaekoさんを連れて私の個展に来てくださったのは、1年半後のこと。「掌の記憶」を手にとり「年は離れているのに、不思議と自分の記憶を重なるものが多いわ」と熱心に見てくださり、翌年の春にTaekoさんの記憶を綴じる約束を交わした。

Taekoさん宅への取材旅の道中、それ以降も何度かお会いしながら少しずつ伺った宮崎さんの記憶。

24年前、コンサルタントとして国内外を飛び回っていた時に難聴を発症したこと。お父様の闘病やお母様の介護。お2人を見送った後に万華鏡に出会い、作家活動と教室を始めたこと。これからの人生を考えていたところで私と出会ったこと。

これも何かも縁かもしれないと「理代さんの視点で、私の記憶を綴じてもらえないかしら」とご依頼をいただき、宮崎さんの記憶もお預かりすることになった。

万華鏡が表すもの

取材の前日「まずは体験いただいた方がいいかなと思って」とメッセージをいただき、中崎町にあるアトリエに伺い万華鏡作りに挑戦することに。

宮崎さんの実演に習って体験用の素材から色紙を選んで外装を決め、3枚のミラーを組む。基盤が整うと無数の小箱が机上に並べられ、色の海が広がった。単色、柄、メタル、天然石…色も形も様々な欠片が500種類以上。万華鏡のために自作したトンボ玉のレース棒も色とりどりある。「さぁ、あまり難しく考えないで思いのままに選んでみて」と背中を押され、色の海に放たれた。

「哀しい雪」をテーマに青や白の石を選び、筒を覗く。イメージと違う仕上がりに首を捻りながら宮崎さんに筒を手渡すと「でも、ものすごく『らしい』ね」と頷く。

「万華鏡は偶発だから、思い描いた通りにならないのも面白いところなの」と、微調整のヒントをくださり、いくつか欠片を替えるとすっと整った。

「色選びは感性だから、その人の内面が出るのね。うん、とってもらしい」数回お会いしただけで的確に『らしさ』を掴んでくださる宮崎さんの「捉える力」に感心しきりだった。

私らしさを表すもの

万華鏡作りを終えると「一番私らしさを表すのはこれかな」と奥の書棚から出してくださった大判の本。漆黒の表紙に「’83 AW FASHION INFORMATION」と銀箔の文字。宮崎さんがファッション業界に飛び込んだ20代の頃、初めて編集したトレンドブックだった。

「FASHION MOOD」という時代の流れを捉えた考察から始まり、ビジュアルと文章を交えた次年度のトレンド、デザインのヒントに繋がる提案が続く。

「結局1つのことが全部に繋がるのね。色もデザインも、歴史も風俗も、生物も」本1冊を編集するために図書館や書店をひらすら巡り、新ブランドや店舗の立ち上げのために海外を飛び回り、リサーチや買い付け。自分の足で世界中から知識と情報を集め、道筋を立てて繋げていった20代の経験が感受性のベースになっているという。

「一番体調が良かった時が、やりたいと思ったことができた時代で。思い切りやったから、聴覚を失った今でもあまり不足がないのかも」と、当時のフィルム写真を眺めながら、ファッション業界一筋、全力で駆け抜けた日々を振り返った。

万華鏡との出会い

感音性難聴と診断されたのは今から24年前のこと。同時期にお父様ががんを患い闘病。難聴の悪化でコンサルタントの仕事を続けることが難しくなり、徐々に業務を縮小。お母様も数年間介護し、5年前に見送った。

万華鏡の製作に出会ったのはその後のことで、偶然訪れた京都の万華鏡ミュージアムで製作を体験した。「万華鏡はすごく好きだっだけれど、作るのは難しいと思っていたから」システムが思っていたよりも簡単なことに驚き、大阪で先生を探して学びを深めた。

「実は私、曼荼羅が描きたくて仏画を学んでいたことがあってね」凝縮したもの、本質を備えたもの、完全にまとまったものという意味を持つ曼荼羅の世界と、万華鏡の表現に、どこか通じるものを感じたという。

想像力をベースに、色彩や感性を組み合わせる。「物理的な構築力に感性が加わることで、想像を超えたものが生まれるから」作り手の視点から語られる、直径数センチの中に凝縮された技術と感性。宮崎さんの言葉から、万華鏡の世界の奥深さを感じたひと時だった。

*Photo by Kumiko Miyazaki

イメージを形に

最初の作品展示は4年前。デザイナーのTaekoさんからの依頼で、作品展で展示する彼女のストール作品のイメージ合わせて万華鏡を作った。もう手元にないものも多く、コマ撮りされた写真を見返しながら、各作品の表情の変化を疑似体験していく。

「イメージを形にできるんだって自信になってね」桜や鉄線など花の形が浮かび上がる和花のシリーズ、天然石を使用した十二星座シリーズ、偏光板を使用したものなど、覗くたびに全く違う世界が広がる。

最後に、これからやりたいことはありますか?と尋ねると「もっと万華鏡を身近に感じてもらえるように、気軽に作ってもらえる場を続けていけたらいいかな」という言葉の後に「あと何年続けられるかもわからないし、少しずつ引き継いでいくこともやりつつね」と続く。

「作家としてはこの先は進化も退化もしていくだろうし、それを逆に楽しみながら」と、今アトリエに眠っている素材や寝かしているアイデアについても、こっそり教えてもらった。

*Photo by Kumiko Miyazaki

失ったことで手にしたもの

取材を終え、お預かりした記憶を紙に綴りながら、2人で1日を振り返る。喪失がもたらすものもあるねと話しながら「今の命と引き換えに失ったものは必然。耳が聞こえてあのまま働き続けていたら、たぶん今頃生きてないかも」という宮崎さんの一言に、静かに頷く。

「失ったことで手にした余裕を楽しみたい」という言葉を最後に預かり結んだ宮崎さんの『掌の記憶』。時代の流れや自分自身にしっかりと目を向け生きる姿勢に尊敬のまなざしをこめて、この本を贈ります。

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取材後記

2年前、友人から「万華鏡の作品展がある」と聴き、偶然訪れた大阪のギャリーカフェで出会った宮崎さんの作品。懐かしいワクワクに胸を躍らせながら、小さな筒の中に広がる各々の世界をずっと覗き込んでいました。しばらくすると在廊されていた宮崎さんが話しかけてくださり、万華鏡についてお伺いすることに。私にとっては初めての筆談で、紙の上に的確に綴る言葉が中々見つからず、想いを伝えることに四苦八苦。短い言葉から的確に感じとって説明をしてくださる宮崎さんに助けられながら「いつか万華鏡を作りに行きます」とお礼を伝え、お互いの近況を緩やかに触れる交流が続いていました。

それから1年半後「掌の記憶」の展示に来てくださったことがきっかけで、ぐっと距離が縮まりお預かりすることになった宮崎さんの記憶。私が生まれた年にご自身の会社を立ち上げたという不思議な縁もあり、時代の先頭を行くファッション業界で走り続けた宮崎さんの記憶は、そのままが時代の流れでした。そして、難聴を患った宮崎さんと、がんを患った私。共に病を境に生き方を大きく変えた先での出会いで、ご家族の闘病や介護などの経験も重なるところが多く「失ったことで手にした余裕を楽しみたい」という宮崎さんの最後の言葉に、静かな力をいただきました。どんな色や光も受けとめ輝かせる、万華鏡の黒をイメージしながら染めた宮崎さんの「掌の記憶」。尊敬のまなざしをこめて、この本をお贈りします。

Writing,Photo :藤田理代(michi-siruve
2017年5月取材

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